京都刺子織作務衣 柿渋(きょうとさしこおりさむえ かきしぶ)

京都・西陣からやってきた新感覚の作務衣。二通りの着方も新鮮。
さまざまな本格的作務衣を開発し、普及活動を続けている当会には、全国か種々の情報が寄せられます。特に、最近はいわゆる業界からのそれが多くなってきました。
「こんな作務衣はいかがでしょう?」という類のお問い合わせも度々ありますが、いまひとつ私どもの胸をときめかすような作品にはめぐり合うことができずに過ぎてまいりました。
そんな折、京都は西陣。百年以上も続いている老舗から――。
「お宅さまの会員の方に、ぜひこの作務衣をご紹介いただければ…」という丁寧な挨拶と共に、一着の作務衣が呈示されました。
青柿からしぼった染液、まさに草木染めの極致!
スタッフの間から思わずため息が漏れました。質感も鮮やかな刺子織。西ケ崎七代目の刺子織が“素朴”なら、京都はまさに“都会派”といえましょう。そして、この作務衣の大きな特色は、その染めにあります。
名前にもなっている柿渋染め。これは、青柿をつぶし、しぼり採った汁を酵母の培養樽に入れて発酵させます。この原液を二年ほど寝かせた柿渋汁は深く熟した色を帯び、天然の色を醸し出します。この液に何回となくつけて染め上げた糸で織った布地は、自然との調和の中で、時と共に深い味わいのある彩りに変化してゆきます。まさに草木染めの極致といえましょう。
洗練されたエスプリが満喫できるニュー作務衣
もうひとつの特徴。それは、写真でお分かりのように、二通りの着方ができる機能性にあります。
上着を着流せば、いわゆる作務衣姿。さらに、はかま感覚のヒモ構造になっているので写真のように活動的で現代的なシルエットも得られます。裾のヒモも好みで締めたり開いたり。とにかく、新和風と呼ぶにふさわしいニュー作務衣。徳利のセーターやハイネックのTシャツなどとあわせてご着用になれば、洗練されたエスプリが満喫できます。
できる限り当会のオリジナル性を大切にしてきましたが、この京都・西陣からやってきた作務衣には、正直なところ脱帽。その色合いといい風合いといい、そのクオリティの高さには関心させられました。
古き佳き作務衣が、今まさに新感覚と共に時代の壁をひとつ乗り越えた――と感じるのは私どもだけでしょうか。
大人気の「柿渋」をはじめとして、好みに応じて「銀鼠(ぎんねず)」「藍(あい)」の3色をご用意しております。

布を刺す。刺子織りの話。(3)

色刺しや伊達刺しも現れ、その服飾美に大きな注目が――
明治に入ると木綿の着用が認められ、刺し糸が白い綿糸に変り、模様がさらに鮮やかに映えるようになります。
この頃から、刺子は実用性より服飾美が注目されるようになったのです。そして鉄道の普及が、刺子の役割に終わりを告げました。
しかし、この北国に芽生えた刺子の素朴さや美しさや滅びることなく現代まで伝えられてきました。
それは単なる模様ではなく、それに込められた“生きる歓び”や刺し続ける乙女たちの心の輝きが万人の胸を打つからに他ならないからでしょう。
この刺し手法は北国以外でも古くから見られます。例えば、江戸中期に「鳶、人足、火消しは必ず刺す」と決めがあったとか。
火消し装束などは、いわゆる半纏刺しとしてあまりにも有名。色刺しや伊達刺しの傾向もすでに現れています。
合理的な刺子織の開発と進歩で、その情緒を楽しむ。
衣服の材料が溢れんばかりに豊富な現代。皮肉にも、切ない想いから生まれた刺子模様が大変に注目を集めています。実用性を重視した武道着はともかく、ファッションとして幅広く取り入れられているようです。
合理性の面から、一針ずつの刺し手法ではなく、いわゆる刺子織りの技術も開発されました。
その良否はともかく、現在では手軽にこの刺子の風情が楽しめるようになったのです。
貧しさを見事な知恵で着る歓びに変えた先人たちの心を、受け止めてみたいものです。

布を刺す。刺子織りの話。(2)

衣服の補強と保温。刺子のはじまりは、なぜか悲しい…。
その昔、木綿は大変貴重な素材でした。特に綿の栽培が出来なかった東北の地においては、百姓農民が木綿を衣服として着用することは藩令によって禁止され、もっぱら麻地を着用していたとされています。
夏はともかく、寒さ厳しい北国の冬を麻の着物で越すのはちょっと無理。そこで衣服の補強と保温を図るために、麻の白糸で布目を一面に刺して塞いだのが刺子のはじまりだったのです。
それがいつの頃だったか、これも定かではありませんが、津軽藩江戸定府の士、比良野貞彦が天明八年に著した「奥民図集」に、
『布を糸にてさまざまの模様を刺すなり。甚見事なり。男女共に着す。多くは紺地に白き糸を以って刺す』
と記してあることから、この時代にはすでに刺子の手法は確立していたと思われます。
農家の娘は、五歳になると針を持たされ、母親と共に毎日のように刺し続けます。やがて嫁に行き、生まれた娘へ…とこの手法は代々継承されていったのです。
身近な自然風土をテーマにした模様は、鮮烈で感動的――
囲炉裏を囲んで黙々と刺し続けるこの“仕事”の中で、娘たちはただ単に実用という目的以外に、飾る歓びを見つけ出します。それが、実に見事な刺子模様を生み出していったのです。
現存する模様を見て見ますと、その発想は身近な自然の風土から生まれているのがよく分かります。猫の目・豆っこ・花・竹・石だたみ…などと独創性豊かに刺されていて、その素朴さとエスプリには感動を覚えるほど。
藍地に白のコントラストは実に端正で、怠惰な飾り立てに飽きた現代人の感覚に鮮烈に訴えるものがあります。

布を刺す。刺子織りの話。(1)

雪深い北国に咲いた白い花――素朴にして端正な“刺子模様”
炉端に座った母と娘が黙々と針を使っています。鉄びんがチンチンと鳴り湯気がゆらゆらと立ちのぼっています。雪はしんしん、外は一面の銀世界。時間が静かに流れてゆき、母親の手元では、藍地に白い花が咲こうとしています…。
こんな光景が時を越えて目に浮かんできます。今回は、雪深い北国から生まれた、質素で素朴でありながら端正な輝きを見る人に与えてくれる“刺子(さしこ)”という技法についてお話しましょう。
刺子とは、簡単に言えば布地に補強、保温、装飾を加えるために刺し縫いをすることです。
衣服に刺しを施す手法は全国各地で見られるもので、その発祥は定かではありません。
しかし、最も古いとされ有名なのは、藍染の麻地に巧みな刺し模様を配し、他の地方では見られない独自の服飾美を築き上げた<津軽こぎん>が上げられます。

緑茶染作務衣(りょくちゃぞめさむえ)

職人が、茶処は静岡の県産業技術センターの協力のもとに作り上げた、茶葉染作務衣「掛川」から5年。満を持して、この夏、緑茶の微妙な緑にこだわった新作「緑茶染作務衣」がデビューします。
かつて、3年もの歳月をかけて完成させた茶葉染作務衣
静岡県西ケ崎の八代目が「お茶染め」に挑戦し。3年もの歳月をかけた茶葉染作務衣「掛川」は、完成まで何度も試作を重ねました。
何しろ一着に一キロの一キロの茶葉を使うため、お茶の手配から始まり、そしてその後、お茶の煮出し、2時間の漬け込み、媒染1時間を4回繰り返す等、まさに気の遠くなるほどの手間がかかりました。
さすがに完成品の出来栄えは見事の一言に尽きましたが、当時は数多く作ることができず限られた皆様にしかお届けできない状態でした。
もう「お茶染めの作務衣」はないのかとお問い合わせ、ご要望を頂く度に、心苦しい思いをしたものです。
茶葉染めの経験を生かした新作緑茶染め。
ご要望には何としてでも応じさせて頂く、それも間に合わせでないものを…というのが当会の技術と心意気。前回の経験を生かし、着々と準備を重ね、新茶の登場を待って、新作発表にこぎつけました。
鮮やかな、香り立つようなお茶の緑の再現。緑茶染めならではの健康的な肌触りは、まさに緑風をまとうような着心地です。
味わい深い素朴な色合い…上質のお茶から生まれた「緑茶染作務衣」。
天と地と人に育まれ…八十八夜に摘まれし香り高き緑茶。今、各方面で注目を集めている、緑茶そのものから染め上げた作務衣が完成しました。
お茶の香りがしそうな上品な作務衣です。

万葉百彩 藍茶葉交織作務衣(まんようひゃくさい あいちゃばこうしょくさむえ)

茶葉染めの糸を組み合わせてみたら…仕掛け人は七代目。遊びごころが見事な作品を生んだ。さすがに目が利く。
息子さんの茶葉染め開発をじっと見守り続けてきた七代目。聞かれること以外は余計な口出しは一切さけてきたという。
だが、職人としての心はムズムズと騒いでいたようだ。ましてや、息子さんの茶葉染めが目を見張るような出来栄えときては、もうたまらない…。
茶で染めた糸を拝借。これをタテ糸に、得意の藍染糸をヨコ糸に使い交織。これまでの藍染では出せなかった作務衣が実に新鮮。藍染めファンには見逃せぬ一着に仕上がった。さすがに四十年以上のキャリアは伊達ではない。
ネップ加工も施された奥深く、何かを語りかけるような藍の色合い――幻の作務衣にしたくないとの申し出に、「じゃ、1ヤード分だけなら…」と七代目。やっと150着のOKを得た。ただし、価格は息子さんのそれを越えないで欲しいとの条件がついた。

万葉百彩 茶葉染作務衣 掛川羽織(まんようひゃくさい ちゃばぞめさむえ かけがわはおり)

どんな作務衣にも合わせやすい――との声しきり。
羽織を合わせた“姿”の良さは、もう言わずもがな。「またお茶っ葉が要るなぁ…」と辻村啓介さん。ぼやきながらも、ハナから羽織は作るつもり。
羽織一枚で作務衣自体の格調が上がることは百も承知。同じ着るなら、作るなら…。
もう、羽織は高級作務衣の定番組み合わせになったようです。

万葉百彩 茶葉染作務衣 掛川(まんようひゃくさい ちゃばぞめさむえ かけがわ)

陽の光満ちて、水清らか、おだやかなこの地に育まれ、八十八夜に摘まれし茶葉――。いま、密やかに鮮烈に色づく。
誰も成さず、まだ成し得なかった染の分野に、探究心旺盛な職人が挑み、これを成し遂げた。茶葉染作務衣の誕生である。
一着に千グラムもの茶葉を必要とし、手間と時間をかけ、ひたすら染め上る。こうして染まった色合いは、まさに香り立つが如き素朴さと溢れる気品を醸し出す。
滋味深き作務衣――名を、茶の産地“掛川”に戴き、颯爽と名乗り出る。

西ケ崎から、新しい風。「辻村染織のお茶染め」(7)

何だかお茶の香りが漂ってくるような、素朴で上品な色合い。
以上、駆け足ながら工程を見せてもらった。しかし、まだ完成品を拝見していない――。
「いやあすまん。工程を経てから見て欲しかったもんでな。少しじらしすぎたかな…」と七代目。そこへ啓介さんが、一着の作務衣を抱えてやってきた。
スタッフから期せずして声が上がった。先ほどの糸の段階で見た黒っぽい感じはきれいに消えていて、実に味わい深い“茶色”に仕上がっている。少しザラッとした手触り、表面にボツボツした加工がしてある。
「ネップ加工をしてみたんです。作務衣の良さは、様式や色と並んで肌にふれる感触や素材の手触りにあると思いますから、ゴワゴワ感やザラッとした感覚は大切だと思いますよ」と啓介さん。そう言えば、七代目の代表作“刺子作務衣”も…。
「茶染めの新しさだけに甘えちゃいかんということですな」と、七代目がピシリと決めた。
しかし、何とも素朴で上品な色。何だかお茶の香りが漂ってくるような感じ。これなら文句なしである。
「申し訳ないと思ったけど、自信があったのでもう作り始めているよ。というのも、かなり日数がかかるし、茶の大量仕入れの関係もあったからね…」
それは大助かり、手作り作務衣の悩みは、注文殺到時の供給が追いつかないことだからだ。
夏季的な茶染め作務衣の開発。しかも、この質の高さは驚異的。
「趣味や同好会などで個人的に茶染めをやっている人はいるかもしれないけど、茶染めの作務衣ってえのは聞いたことないな。まず初めてのことだと思うよ」と七代目。啓介さんもウンウンとうなずいている。
常に作務衣の質的な向上と広がりを求め続けている当会としては、今回の本格的な茶染めの開発は非常にありがたい。しかも、初めてにしてこの質的レベルの高さは、啓介さんと七代目に深い敬意を表したい。
それもこれも部屋の片すみに積んである試作品の山に尽きるようだ。
「いやあ、これは人に言うことじゃないですよ。自分自身のためにやったことなんですから…」と謙虚な啓介さんだが、思い込んだら一すじの妥協を許さぬ性格が、この成功を収めたと言うべきだろ。
来年の八十八夜に向けて、早くもお茶の手配を…
今後、西ケ崎では、藍染めを七代目、茶染めを啓介さんの二本柱で展開してゆくという。
「来年の八十八夜に向けて、材料であるお茶の手配にもう頭を痛めていますよ」と啓介さん。幸いに、この茶染め開発には、掛川の農協関係者も注目していて、協力を約束してくれているという。
七代目、立派な跡取りができましたね――と水を向けると、「なあに、まだまだひよっ子だよ」と照れた。

西ケ崎から、新しい風。「辻村染織のお茶染め」(6)

タテ糸とヨコ糸の割合をイメージに沿って計算する。
天日干しした糸をいよいよ織り機にかける。ヨコ糸は少し濃い目にタテ糸は薄目に…。
「その割合は倅が計算するんだ。ただ織りに関してはワシにも多少の出番はあるな」と七代目。啓介さんも、「よく相談しますよ。やはり、おやじの経験は貴重ですからね」
啓介さんのイメージにある色を実際に織りで出すのだから、タテ糸、ヨコ糸の割合はデリケート。二人で額を寄せ合って考えている。
「染めの色が均一な科学染料なら一回決めちゃえばいいんですが、手染め、糸染めですから、その都度細かなチェックをいれてます。それに、これまでずいぶん織ってきましたから、だいたいのカンは身についてます」
手織に近い速度でゆっくり糸が織られていく。
こうやって織り上げられた生地を、ワッシャーで丹念に洗う。この段階で、茶染め本来の色が姿を現すわけである。これでもか、これでもかとワッシャーにかけることで色落ちも防げる。
最後に、この生地を縫い、いよいよ完成となるのだが、啓介さんの仕事は一応これで終了。あとはプロの手による縫い上げを待つばかりである。しかし、ほっとする暇はない。山のような白い糸が、啓介さんの染めをじっと待っているのだから…。