樹皮模様に織り込んだ杉の葉のイメージ!
仕上がりは、あたかも樹の皮を想わせる模様に織り上がりました。さらに目をこらしていただくと、緑が細かく混じっていることに気づかされるはず。杉の葉のイメージを織り込んでみました。ヨコ糸に何本に一本という計算で緑の糸を飛び込ませたのです。
つまり、この樹木染作務衣は、一本の杉の木のすべてをトータルに表現しているのです。
恒例となったモニターによる試着会の場で、モニターの一人が「森林浴の匂いがする!」と言い出しました。匂い付けなど全くしていないのに…。これは、目が感じた樹木の香りだったのです。
それほどに、この作務衣は、樹皮の再現がなされているということ。私どもの自信はさらに深くなったことは申すまでもありません。
樹の皮で染める――このこと自体が画期的な上に、あたかも香り立つが如き、樹木の表情の再現。大汗をかきながら杉の皮を煮詰めた職人も、あたかもキャンバスに絵を描くように樹木を表現した織り職人も、この作品の完成には大満足の様子。
「樹ならヤマとあるからな…」との励ましの言葉を背に、この樹木染作務衣「天竜」を、世に問います。
樹木染め 天竜杉染め(3)
煮出した染液に何回も漬け込んだ上に…
杉丸太の樹皮が、一枚一枚手によって剥がされていきます。そして、この樹皮をさらに細かく刻んでいき、刻まれた皮を布袋に入れて煮詰めます。すべて手作業、屋外にて豪快にグツグツと煮詰め、杉皮の液を煮出すのです。この液を絹の布でこして染液の完成です。
この染液に綿糸を幾度となく漬け込んで染めるわけですが、色付けや色落ち防止のための特殊な媒染がなされ、樹木染めの糸が完成します。
この糸を使い、いかに織り上げるか。
作品の真価は次の織り工程にかかっています。樹皮で染めた糸でタテ、ヨコ織ったとしても、それはただ茶色がかった平板な布地にしかなりません。
緻密な計算と芸術的な感覚により、まさに樹皮を着るが如き作務衣に仕上げなければならないのです。
樹木染め 天竜杉染め(2)
樹の皮で染める――自然を纏う感覚が五体を走る。万葉百彩の旅、天竜へ。
藍の葉に始まり、草や花、そしてお茶の葉まで歩を進めた「伝統芸術を着る会」のライフワーク、万葉百彩の旅。
まだ、染めるべき素材は身近にありながら、天の声に導かれるように静岡県天竜市へ飛びました。その目的は、この地にて行われている樹木染めへの興味でした。
天竜は、奈良の吉野、三重の尾鷲と並び日本三大美林のひとつに挙げられるほど。特に、当地の杉林は昔から有名なところです。
県や市をあげて研究、開発した樹木染め!
この地において、静岡県科学技術振興財団が実施している“天竜杉染め”の評判は、以前から当会にも届いていましたが、時期尚早との考えで私どもも二の足を踏んでいたのです。
ところが、いちばん新しく送られてきた試作品を見てびっくり。飛躍的に高まった品質に当会の開発計画は一気に樹木染めへと進んだのです。
天竜へ来て、その成功の秘密が理解できました。それは、染色素材である杉が豊富なため、色のバラつきが少なく、色目の統一や安定が可能なこと。さらに産・学・官の共同研究により、繊維に染まりにくいという杉の欠点を、特殊な媒染剤により克服していることに尽きます。この媒染の方法は、俗にいう企業秘密。公開はできません。なにせ、長い期間にわたる試行錯誤の結果に得たノウハウですので、その点はご了承下さい。
工程は、まず杉の木の伐採から始まります。色目を統一して木を選び、丸太にしていくのです。
樹木染め 天竜杉染め(1)
樹木への想い――
その陽なたで本を読んだ。
昼寝もした。
旅人はひとときの涼をとった。
木登りは少年を男にした。
少女は花飾りを編んだ。
ざわめく葉音に畏怖を感じた。
幹に名前を刻んだ。
爺さまは毎日拝んでいた。
昆虫や虫たちの宿屋だった。
風や雨や雪を許していた。
矢や弾丸がかすめたこともあった。
広く根をはり、びくともせず、歴史を見ていた。
愛しながら、敬いながら、人はそのふところに抱かれた。
その時代ごとに――樹木はオヤジだった。
樹木のある暮らし…それは誰もが望む自然回帰への本能です。
樹齢何百年という大樹を目の前にした時、私たちはとても懐かしい想いがします。同時に、なぜか身のすくむような感じもあわせ持つものです。海がヒトの胎内なら、森はヒトの父親だった――そんな気分におちいります。
ヒトと樹木の付き合いは、ヒトの歴史を物語ります。樹木が与えてくれる恩恵は、精神的なもの物理的なものを合わせると、それこそ計り知れないものがあります。
こんな樹木への思いを込めて、特集テーマは“ウッディ・ライフ”、つまり“樹木のある暮らし”です。
といっても、当会のテリトリーから考えても大層なことはご提案できるわけがありません。しかし、せめて「樹木への想い」をできるだけ形にしたいと思いました。
万葉百彩シリーズの一環として、今回は「樹木染め」。そうです、樹木による染め技法を皆さまにご披露したいというわけです。
心や目で感じる樹木の香り、樹木をまとう感覚から生じる自然回帰。新しい世界の広がりを、ぜひお試し下さい。
デニムの浪漫(2)
サージ織りがド・ニームへ、そしてデニムが生まれた。
ニーム市の博物館には、19世紀初頭の女性用の上着が残されていますが、それを見ると、インディゴブルーに染められた糸を表側に、無染色の糸を裏側に使って菱形模様を織り出したサージ生地で、それはまさにデニムそのもの。
このニーム産の綾織り生地を指す「サージ・ド・ニーム」の、産地を示す「ド・ニーム」が一人歩きして、デニムと呼ばれるようになったのです。
かつてのニームでは、毎日のように織物マーケットが開かれ、仲介業者が集めた品物を、ローヌ河に通じる運河で待ち受けている船に積み込んでジェノバへ送り出していました。
そしてジェノバ港からは大型の貨物船が仕立てられ、アメリカへ向けて、デニムは新天地へと向かう沢山の人々の夢と共に船出して行ったのです。
デニムが着るだけで人の心を弾ませるのは、そんなドラマが秘められているせいなのかも知れません。
デニムの浪漫(1)
夢と共に大西洋を渡った生地。
陽光がオペラのような賛歌を振りまく。
風が鳥のような飛翔を誘う。
人々の歓声と笑顔が弾け、船はゆっくりとヨーロッパの岸を離れゆく。
一路、新天地アメリカを目指して――。
その夢と共にデニムも行く。
数え切れぬほどの希望を、その粗く温もりのある生地のひと織りに込めて。
やがてそのブルーは海と同化し、さざ波のように世界へと駆け、年齢も性別も時代をも越えて、人々を魅了し続ける。今も、未来も――。
デニムの故郷である南フランスの街“ニーム”
デニムの故郷、南フランスのラングドック地方に位置する街、ニーム。昔から水に恵まれた土地で、街の名前の意味も「南の泉」を意味しています。
農作物に適した地味豊かな平野。パリやリヨンなどの都市に通じる街路を持ち、地中海へと続く道を持っていたこの街は、経済的な発展を見せ、15世紀の興った繊維工業と結びつき、さらなる発展を遂げました。
18世紀になると街には織物学校も作られ、やがて産業革命の余波が伝わると、染織工程ばかりではなく、織りの工程にも分業制ができ、生産量はぐんと高まりました。
やがてニームは織物の街として栄え、その織物は、地元の市だけではなく、ついには新世界であるアメリカへ至るようになります。
アメリカへの輸出品であるブラックタイやカシミアのショールなどの商品に交じっていたのが、当時、ニームの市民が普段着にしていたサージ織りと呼ばれる粗い生地で、これが現在のデニムの原型だと言われています。
後継者問題 若き職人たちの挑戦
怖いもの知らずの感性が、新しい伝統を育てています。
“古き佳き装い”を現代に蘇らせる――これは、私ども「伝統芸術を着る会」が掲げた大きな目的のひとつです。そして、この目的は皆様のご支援のおかげで着々と成果を上げてまいりました。
しかし、そのことに全力を注ぐとき、待ち受けているのが、もうひとつの大きなテーマ――「次世代へ向けての新しい方向性」へのステップです。
若い芽を摘むことなく、大きく育てたい!
職人の世界で、今最も頭が痛いのは後継者の問題だといわれています。しかし、その芽がまったくないかというと、そうでもないのです。藍染や織物の面白さに目を止めた若者たちが、数こそ多くはありませんが、このところ増える傾向にあります。
彼らは、伝統的な技法を基本として学びながら、一方では、ベテラン職人の及びもつなかい感性や発想で新しいものに挑んでいます。
当会では、決してこの芽を摘むことなく育てていきたいと考えています。そして、機会あるごとに、彼らの作品を皆様にもご紹介していくつもりでおります。
そして今回、ご紹介できるレベルに発表させていただきます。武州の秋元さん(染師)、西ケ崎の七代目たち名人に、時代の変化を痛い程知らしめた若い職人たちの挑戦をお受けとめ下さい。
高機能作務衣について
高機能に異論なし――会員の皆様の判定です。
伝統様式をきちんと守った作務衣、そして、今に生きながら新しい可能性を広げていく作務衣――私ども、「伝統芸術を着る会」では、作務衣には大きく分けてふたつの作務衣があると認識しています。
端的に言えば、前者は正藍染作務衣であり、後者はデニム作務衣であるということです。
素材や味わいの違いという程度で、それはたいした違いではないと私どもは考えています。
しかし、水をはじいたりシワを無くしたり…それも意図的に加工という形で成すことに関しては、意見の対立がありました。
そこで、会員の皆様に下駄をあずけた形で呈示したのが、“高機能作務衣”だったのです。
結果は、これが大好評。「高機能だから買う気になった」などの声が殺到したのです。
なるほど作務衣が奇抜なものでなくなり、洋服などと同じ次元で捉えられるようになったのなら、高機能加工は特別なことではありません。これもまた、今日に生きる作務衣なのです。
夏こそ粋の見せ場。例えば歌舞伎の場でも…。
暑い夏は誰もが着るものに無頓着になる季節。
ということは逆に言えば、夏こそ本物の粋、本当のお洒落を、作務衣で個性的に主張できるということ。
それもそれなりの場へのお出かけとならば、作務衣姿はなおさら引き立ちます。それは例えば夏の歌舞伎見物…。
歌舞伎は「科白劇」と「舞踏劇」の二つに大別され、前者は公家や武士など貴族たちの道義感を表した「時代物」と、市井の庶民の生活をモチーフとした「世話物」のふたつに分けられます。
(幕末頃の「世話物」は「生世話物」というそうです)
また、歌舞伎場には独特の装置と道具があり、「廻り舞台」「花道」「迫り上がり」など劇場建築の一部を成す機構があり、役者の演技と結合して、見事な演劇を創り出す重要な要素になっています。
それと共に忘れてならないのがは、観客も華になるということ。舞台はもちろん、客席が共に昇華して、歌舞伎と言う場は、さらに深い感動を生み出すのです。
それなりの場には、それにふさわしい作務衣を。それが本当の粋なのです。
光に映える、柔らかなシボ模様――ジュンロンという素材
112年前にフランスで生まれたレーヨン繊維
拙文をもって商品のご紹介をさせて頂いております筆者は、戦中に生まれ物のない時代に生きてきたせいか、これまで「レーヨン」という繊維に対して大きな認識の誤りをしていました。
石油か何かでできたもの…という様な偏見を持っていました。
まさに、穴があったら入りたいような心境ですが、同世代以上の方の中には、筆者と同じような誤解をお持ちになっていた方もおられるのではないかと思い、こちらから先に恥をさらしてしまいました。
調べてみますと、このレーヨンなる繊維はなかなかのもので、1901年のビクトリア女王の葬儀にこの生地で仕立てられた服が着用された程の格式を持っているのです。
原料はパルプなどの天然繊維素高分子
「レーヨン(Rayon)」は、1884年(明治17年)、フランスのシャルトンネ伯爵によって初めて工業的な製造方法が発明されました。さらに、1901年英国のクロス、ベバン、ビートルの3人によりビスコース法によって作られるレーヨンが発見されたというのですから、その歴史は日本の時代(明治)に合わせて考えるとすごいものがあります。日本では、1924年頃から生産が始まっています。
原料は、木材パルプやコットン・リンターパルプなどの天然に存在する繊維素高分子。これらを溶解しビスコースを作り、ノズルから押し出して繊維状に凝固再生させた繊維がレーヨンです。
用途としては、優れたファッション性と強い物性を利用して、ドレス、スーツ、シャツ、ジャケットなどに採用されています。
このレーヨンの長所を伸ばし、短所を改良して生まれたのが、新作の素材として採用されたジュンロンというわけです。