絹古彩(1)

絹の光沢に溶け込んだ彩り――見る角度や光によって、渋さと粋さが交錯します。
私ども『伝統芸術を着る会』には毎日のように、作務衣をご愛用の皆様からお便りが届きます。
あたたかい励ましの言葉からお叱りの言葉までさまざまです。また、とても参考になるご提案やご要望もかなりの数にのぼります。
これまでも、キルト作務衣や利休茶作務衣などの開発は、皆様の声が大きなヒントとなり完成いたしました。
そして今回、やはり皆様の強いご要望に応えるべく開発したのが、ここにご紹介する<絹古彩>シリーズなのです。
どんな色にも容易に染まる絹素材!
高級素材の作務衣に彩りを――このご要望は以前よりかなりの数にのぼっていました。当会としても、英断した正絹作務衣の開発と利休茶作務衣の復元の成功により、次に成すべきは何かを探っていましたので、タイミングはピッタリ。早速、開発の緒につきました。
素材は最高級の正絹。これはすぐに決まりました。
その理由は、絹という素材は、どんな染料にも容易に染まり、内部からの反射光が表面に透過して鮮明度の高い発色が得られるという性質を持っているからです。
つまり、微妙な色合いが出せるということです。

絹三昧(きぬざんまい)(2)

意外な事実――絹は非常に健康的な繊維!
桑畑に降りそそぐ太陽エネルギーを一杯に吸収した桑の葉を、蚕はすさまじい食欲で食べ尽くします。そして、食べた桑の葉を次々と絹物質に変えていくのです。
普通、綿や羊毛などの繊維は細胞により構成されているのですが、繭糸は細胞の分泌物である絹が、糸として吐き出されることにより繊維化されます。
このように液状のものから糸となる現象は大変に不思議なことで他に類を見ません。この絹の持つワクワクするような“神秘性”もまた、絹の人気の秘密かもしれません。
ところで、繭糸の組成は、その90%以上が人体の皮膚に近いタンパク質で出来ているということをご存知でしたか。
このため、人体にとっては非常に健康的な繊維なのです。化学繊維などで見られる肌のトラブルなどが、絹ではまず起こらないのもこのためなのです。
絹の肌ざわり、着心地の良さが言われる裏には、こんな秘密があったということ。自然の神秘的な営みから生まれた絹が、自然主義の復活と共に見直されてきたのもうなずける話です。
光沢や風合いも、やはり布地の王者!
絹の魅力について少しお話いたしましょう。
まず、何と言っても光沢ですね。絹は、真珠や象牙と並んで優雅な光沢の代表といわれています。実に複雑な微細構造がその理由。さらに、大小さまざまな三角断面のプリズム効果が、その光沢をさらに美しいものとしています。
科学繊維の中には、一見、絹の光沢に似たものがありますが、違いは歴然。似て非なるものです。
次に風合い。風合いとは、光沢や触感を総合した感覚的な性質のこと。つまり、目や手触りを通した官能的な品質評価ということです。
絹のぬめり(弾力のある柔らかさ)や、こし(弾性のある充実感)は抜群。また、しなやかさから生まれるドレープ性の美しさも筆舌に尽くしがたいものがあります。その他の要素も含めて、やはり絹は繊維の王者――これに優るものはまず考えられません。
お金に換えられない“絹を着る”という価値観!
絹が見直されている――と申しましたが、衣料用繊維の中に占める絹の消費量は、わが国ではまだ1%にしか過ぎません。供給の問題もあって、まだまだ希少性の高い素材なのです。
それだけに“絹を着る”という感覚は、それ自体がくすぐったいような誇りであり、感性の歓び。お金に換えられない価値観だと言えましょう。

絹三昧(きぬざんまい)(1)

このところ天然繊維が見直されてきています。中でも、“絹”への注目がとても高いようです。長い歴史を持ち、いつの時代においても別格の扱いを受けてきたこの繊維は、また自然の神秘的とさえ言える営みから生まれるもの。それだけに、合理主義の象徴とも言える化学繊維からは得られぬ精神的な何かに多くの人が気づいた結果といえましょう。そんな“絹”の話を少しの間お聞き下さい。
自然と歴史が創り上げた絹の世界
はるかに遠く、今から五千年もの昔。
人類最古の文明が生まれた頃、中国に伝説的な名君と崇められた黄帝という王がいました。ある日、この黄帝の妃が繭を手にし、誤ってこれを茶湯の中に落としてしまいます。慌てて箸でこれを拾い上げようとしますが、手繰っても手繰っても純白の糸が際限なく箸に巻きついてくるだけでした。
もうお分かりでしょう。これが繭から生まれたいわゆる“絹”の始まりなのです。
なんでも事の始まりはこんなもの。実際にこの妃にしても、その後、この絹が世界中に行き渡り最高級布地として高い評価を受けるなどとは想像もしなかったことでしょう。
しかし、あの絹の発見が壮大な浪漫話などではなく、人間のちょっとしたドジから生じたとは、実に人間的で愉快な話です。
憧れに近い感情も受け継がれてきた。
こうやって発見された絹は、その後、世界中へ急速に広まってゆきます。そしてどの国でもいつの時代でも、大変に貴重なものとして扱われてきました。絹がお金の換わりに使われたほどです。それだけに、時の権力者たちがほとんど独占してしまい、後世まで絹は高嶺の花というイメージが定着してしまいます。
日本への養蚕が伝わったのは西方諸国よりも早く、弥生前期(紀元前二世紀)といわれます。養蚕の黄金時代は大化の改新の頃から十世紀にかけてでした。しかし、ここでも、桑を植え、蚕を育てたのは庶民でしたが、一片の私有も許されず上納を強いられてきたようです。
その後も営々と絹は歴史と共に歩み続けてきました。織り技法の発達により、絹の特性はさらに磨きがかけられ、そのイメージは輪をかけて絢爛たるものとなっていったのです。
私たちが、今でも“絹”に対して憧れに近い感情を持つのも、こんな歴史的な背景があるからではないでしょうか。

コーデュロイ作務衣開発秘話(3)

この作務衣にふさわしい際杖場所は、由緒ある旧古河庭園の洋館。
完成した「コーデュロイ作務衣」。少し緑がかったグレーに、毛羽立つ前の“王様の畝”が奥ゆかしく整列しています。はおってみると実に暖かい。二重織りから生まれたこの暖かさは、これまでのどれもと違う優しさを持っています。また一歩、当会の“暖かさ”が進化しました。
西欧生まれの布地、そして、王様の畝と呼ばれるコーデュロイ、ということから、秋号かたろぐに載せる写真は由緒ある洋館で撮ろうということになりました。
そこで、選んだ撮影場所が、旧古河庭園の中にある大谷美術館。何とかお願いしてこの館のテラスや玄関まわりを使わせていただきました。ルネッサンス風の洋館と、コーデュロイ作務衣の調和は狙い通り。ピタリと決まりました。まさに、ヨーロッパの雰囲気を持った作務衣の誕生ということでしょうか。
もう何年にもわたって当会の作務衣のすばらしさを表現してもらっている男性モデルの古谷さんも「今までにない感触と暖かさですね。どっしりとしていて小粋な感じがします」とのこと。着ることにおいて作務衣の専門家である古谷さんのこの言葉は、大いなる自信となります。
コーデュロイ作務衣の開発――またひとつ作務衣の幅が広がりました。この秋は“王様の畝”でちょっと小粋に輝いてみませんか。

コーデュロイ作務衣開発秘話(2)

常識にとらわれることなく、いいモノはいい!と断言したプロの目の確かさ!
素材は綿、色合いは最もコーデュロイらしいグレー系。
さあ、試作開始です。コーデュロイを織り慣れた職人を招き、指導を受けながら試し織りが続きました。
畝幅の広いもの(1インチの間に5~6本)を鬼コール、9本くらいのものを中コール、15本くらい入れると細コールといいますが、この作務衣は中コール。畝幅は広すぎても細すぎてもちょっと嫌味です。
このコーデュロイのハイライトは、何といっても浮いた毛緯の先端を剪毛して毛羽立たせる工程にあります。そして、実際にカットして独特の毛羽立った畝が次々と姿を現してきました。
ところが、わが職人たちはもうひとつ浮かぬ顔…ん?どうしたことでしょう。急遽、額を寄せてのミーティング。そして、とんでもないことを言い出したのです。
「剪毛するのをやめよう」――スタッフ一同、呆然。
コーデュロイとは、浮いた毛緯をカットして毛羽立たせるもの、それは前提というか約束事に近いものであるはず。「そりゃよく分かってるは、作務衣ということを考えると毛羽立たせない方が味があるんだ」とベテラン織り師。
そして、剪毛して毛羽立った布地と剪毛していない布地を並べて見せてくれました。
驚きました。さすがプロの眼は凄い。毛羽立った畝には奥行きが感じられません。一方、剪毛前の布地は余韻があるというか、畝も生きていて独特の渋さがあります。
一般的な常識に振り回されることなく、きちんと本質を見極める職人の目に脱帽。この人たちと作務衣を作れることに誇りさえ感じてしまいました。

コーデュロイ作務衣開発秘話(1)

“王様の畝(うね)”が秋を侍らせる
お坊さんがコール天の作務衣を着ていたとか。何でも、知り合いの呉服店で、余り布を使って一着だけ作ってもらったとのこと。
「これがなかなか小粋で、目立っていたよ」という話。意外に反対意見がありません。どころか、「厚手だから暖かそうだしね」とか「洒落た感じで仕上がるかもしれない」とか、もう決まったかの如き発言が相次ぎました。
これだけみんなの頭の中にイメージが浮かぶのなら大丈夫――決まる時はこういうもの。秋の新作は、かくして「コーデュロイ作務衣」に決定です。
二重織りでタテに畝を走らせる――暖かさや丈夫さも抜群!
その昔、西欧のある王様が城の兵士にこの布地の服を着せたところ、とても美しく立派に見えた――という話から名付けられたcordeduroi(王様の畝)。
この“コーデュロイ”、わが国には1891年(明治24年)頃に初めて輸入されたと言われています。特徴は、平織りの地の上に、パイル織りを重ねて、毛緯をタテ糸の上に浮かせ、その浮いた毛緯を中央で剪毛(切断)して毛羽立たせ、タテの方向に毛羽の畝を走らせることにあります。
これが王様の畝と呼ばれるコーデュロイならではの畝模様。畝の凹凸感が見ても触っても小粋な感じで、とてもお洒落。さらに、織りを重ねているため厚手に仕上がり、暖かさや丈夫さは抜群。風合い、機能ともに、秋の作務衣に申し分なしといえましょう。

作務衣と私

皆様はどのような時に作務衣をお召しになり、また、どのように作務衣を着こなしていらっしゃるのでしょうか。このコーナーでは、「伝統芸術を着る会」の会員である作務衣ファンを訪ね、その近状をレポートいたします。
今回は、千葉県柏市で手打ちそばを作っていらっしゃる高橋様を訪ねました。
50歳で飛び込んだ修行の道
私が蕎麦屋を始めたのは三年前です。いわゆる脱サラですが、手打ち蕎麦を教えてくれるところを、あちこち訪ね歩き、信州のあるお店で住み込みで修行を始めたのは50歳のときでした。
一般には一人前になるまで10年の修行が必要といわれますが、私の場合は今後がありませんので、足掛け二年で切り上げ、商売をしながら修行を積む毎日です。
勉強不足を補うため、他に負けない食材と雰囲気の店にしたいと思いました。さいわい、竹林のそばに遊んでいた土地を借りて、モダン和風をテーマにした蕎麦屋らしからぬお店を建てました。
蕎麦粉は北海道産を取り寄せ、蕎麦粉100%の生粉打ちが看板商品です。おかげさまで、口コミで少しずつ人気が出てきました。
モダン和風の店に作務衣が似合う
味さえ良ければいいじゃないか、というので、つい最近まで普段着にエプロンで通してきました。ところが、お店のムードによく合うからと、知人が作務衣をプレゼントしてくれました。
最初は気恥ずかしかったのですが、着てみると意外と好評で、結局、私のユニフォームになってしまいました。朝、蕎麦打ちを終えて作務衣に袖を通すと、気分もピシッと引き締まります。そうなるともう一着欲しくなります。
そんな時目にとまったのが「伝統芸術を着る会」のカタログでした。
新作の案内が届くのが待ち遠しいですね。
「作務衣かたろぐ」が届けられますが、今号はどんな特集があるか、どんな新作があるかなと封を開けるのを楽しみにしています。
作務衣を作業着だけにしておくのはもったいないじゃないですか。今では休日に家でくつろぐ時や、正月など客を迎える時にも作務衣を着ていきます。
「作務衣かたろぐ」は商品を売るだけでなく、どんな時に着たら良いかなどTPOの参考にもなるので、じっくり拝見しています。これからも新作の開発をよろしくお願いします。
「すずめ庵」東武野田線 豊四季駅下車、徒歩約15分
作務衣ファンからの皆様のお便りを募集しています。作務衣を着たあなたをぜひご紹介下さい。

作務衣ファンからのお便り(2)

「日本の伝統や文化を外国人に教わるなんて…」
「ドイツの得意先の社長が商用で来日したので、お土産に絹の作務衣を二着差し上げたところ大喜び。帰国してからも夫婦で着ていると礼状がきましたよ。ゆかたよりスマートだし、むこうの人も馴染みやすいみたいですね」(55歳・広告代理店経営)
そういえば、日本に日本文化の研究や武道修行に来た外国人の方からご注文もよくあります。自分の国の伝統や文化を外国の人に教わるということですか。
これではいけない!と私どもの普及活動にも一段と力が入る次第です。
「作務衣での外出、最初は勇気がいったが…」
「作務衣を着て外出するのに、最初は勇気がいった。でも、一度そのまま電車に乗ってからは平気になり、どこへでも出かけられる。絹古彩の鉄紺に羽織を合わせて、先日友達の結婚パーティーに出席したら注目のマトとなって、もう病みつきになりそうです」(31歳・公務員)
恥ずかしいことはありません。これからも積極的にご着用になり、モテまくって下さい。
「定期的にカタログを送って欲しい」とご住職。
あるお寺のご住職さまから、お電話をいただきました。
「地方のせいか、本格的な作務衣を求める機会がない。お宅の品は実に心がこもっていて素晴らしい。カタログを定期的に送って欲しいのだが…」
ご安心下さい。『作務衣かたろぐ』のご購読はいつでも受付中です。
ご叱責やご提案――ありがたいことです。
今後も作務衣についてのご意見やご感想、開発へのご提案やアドバイス、さらに詩、短歌、俳句、書、絵などの作品投稿も大歓迎です。また、できますれば作務衣姿のお写真をご同封いただければ、これ以上ない喜びです。

作務衣ファンからのお便り(1)

ご愛用の皆様からさまざまなお便りが届いています――
伝統芸術を着る会の作務衣や藍染などの作品は、北海道から沖縄まで、時には海を越えて外国にまで届けられています。そのご愛用の皆様から、着用の感想やエピソード、そしてご提案などが、毎日のように当会に送られてまいります。その中からいくつかをご紹介してみましょう。
寄せられるお便りの封を切る時、なんだかワクワクしてしまいます。お届けした作務衣が、皆様の暮らしの中でどんな彩りとなっているのか…それを思う時は、ちょうど娘を嫁に出した親のような気分なのです。
「作務衣のおかげで茶道教室の看板おやじに…」
「女房が自宅でお茶を教えていて、金曜の夜は、若い娘さんたちに我が家は占領されてしまいます。そんな広い家ではないから、どうしても私の姿は目に入ります。
こちらは週末ぐらいのんびりしたくてひどい格好してまして、女房にいわせると、どうもジジくさいとか。
で、女房と相談して武州の作務衣を着るようになったところ、これが若い娘さんたちに大好評。茶席のお客役として招かれたり、外で会ってもあいさつされたり…。
いつも同じじゃみっともない。今度は絹の作務衣を着てみようか――と女房に言うと、『仕方ないわね』といつもは固い財布のヒモをゆるめてくれます。
だって私は、今では、大沢茶道教室の“看板オヤジ”なんですから…。
今のうちなら大丈夫ですので、次々と新作を発表してください」(52歳・会社員)
こんなほほえましいお便りを受け取ると、嬉しくなってしまいます。新作、頑張ります!

インバネスについて

懐かしさに拍手、その新鮮さに歓声!試作段階から話題騒然――あの幻の外套<インバネス>が蘇りました。
いつものように開発会議。その日のテーマは「冬、作務衣の上にはおるコート」でした。
普通の和装コートでは知恵がない。では、どうする?座が静まり返った時、“長老”と呼ばれている一人が沈黙を破りました。
「インバネスはどうだろう?」
聞き慣れぬ言葉に百科辞典がめくられます。そして、そこに現れた左のような絵にスタッフ全員の目が吸い寄せられていったのです。
スコットランドで生まれ、欧米を席巻した外套(コート)
インバネスとは、19世紀中ごろ欧米で盛んに着用された外套のことで、スコットランドのネス川河口の町インバネスを発祥の地とするため、こう呼ばれるようになりました。
たけが長く、袖なしで取り外しのできるケープが身ごろについてきます。
日本でも、明治20年ごろに伝わり、大正、昭和の初期まで「とんび」あるいは「二重まわし」などと呼ばれ愛用されていました。現在では、その姿はまったく見ることができず、現存すら危ぶまれていました。
その軽さにビックリ、動きも自由自在!
しかし、この幻となった外套の復元には、その原型が何としても不可欠。四方八方に手を尽くしてやっと一着のインバネスを横浜のテーラー経由でお借りすることができました。
この貴重なインバネスを手本として、それを越えるレベルで復元したのが、ここにご紹介する「正藍染インバネス」なのです。