透かしの美学・涼感溢れる夏の織物 絽(4)

季節を先取り、早目に絽を着るのが粋…。
目が粗く透間の多い紗は、通気性に優れていますが、その目の粗さゆえ、染めや模様が難しいことも。
通気性では紗に軍杯が上がりますが、染めや模様では、絽の方が優勢のようです。
どちらも古来から続く夏の代名詞、お好みでお選び頂くのが一番でしょう。
本来、絽は絹織物とされてきました。
ですが、涼感や染め…特に藍染仕上げということになると綿素材の絽織でしょう。さらに価格的な面も加わり、綿絽の人気が高くなってきています。
最近、和服を着る人が少なくなったものの、高級ゆかたや作務衣などにその優雅な涼味を生かそうとする傾向があり、注目です。
絽は典型的な夏の装いです。
しかし、愛好家の間ではひと季節早く着用するのが粋とされているようです。衣替えの五月半ば頃からという感じ。もちろん、盛夏まで約三ヶ月は絽の醍醐味が楽しめるというわけです。
簾と同様に、透かして見せることによって見る人まで爽やかにするというのですから、絽は何とも奥深い織物といえましょう。

透かしの美学・涼感溢れる夏の織物 絽(3)

羅を少し遠い先祖とすると、紗と絽は兄弟のようなもの。ですから、絽の説明をする場合、これをセットにしてお話した方が分かりやすいと思います。
紗も絽も共に、からみ織という技法で織られています。
基本的に織物は、経糸(タテ糸)と緯糸(ヨコ糸)が直角に交差することで平面を作っています。
そして、からみ織とは経糸が二本(地経糸・綟経糸)一組となって、緯糸一本、あるいは奇数(三・五・七)ごとによじり、そこに緯糸を打ち込み透間を作る技法のことを言います。
図のように、紗は、緯糸一本おきによじれを作り透間を作っていきます。この目の粗さが透明感を作るわけです。
一方、絽は一度よじった後、緯糸三本おき、五本おき、七本おきという具合に経糸をよじって絽目という透間を作っています。
紗は、絽目を連続させたものですが、絽の方はその間に平織りを入れていきます。平織りの部分の緯糸の数、三、五、七によってそれぞれ「三本絽」「五本絽」「七本絽」と呼ばれています。

透かしの美学・涼感溢れる夏の織物 絽(2)

二千年も昔に開発された、布地を透かすという技法
ところで布地を透かすという発想や技術は、いつ、どこで生まれたのでしょうか。
発祥は中国です。今から二千年ほど前に“羅(ら)”という織物が現れています。この羅は、透間が大きく、まるで鳥の網のようだったといわれています。
この羅に比べ、透間がぐんと小さくなったのが紗。
この紗は唐から宋の時代にかけて発達し、日本でも鎌倉から室町の時代に盛んに着られていました。
この透間がさらに小さく、目が細かくなったのが絽です。
北村哲郎氏の著書「日本の織物(源流社)」によると、享保六年(1721)に、呉服商から奉行所へ提出した布類の明細書に初めて“呂”という言葉が見られるとありますので、始まりは江戸時代と考えてよいでしょう。

透かしの美学・涼感溢れる夏の織物 絽(1)

庭に面した障子は取り外されて簾がかけてあります。部屋の襖も開け放たれていて、家の奥までが透かして見通せます。
ひっそりと冷たく涼気が流れてくるようなたたずまい――昔から、むし厚い日本の夏をなんとか過ごすためにさまざまな工夫が重ねられてきました。
この簾の発想などは、住む人はもちろん、見る人をしても涼感を与えるという細やかな日本人の美的感覚から生まれたものといえましょう。
優雅な涼味をかもし出す、代表的な夏の装い――
装いとて同じことです。“夏姿”という言葉があるように、夏の衣服は昔から特別に扱われてきました。
麻布、縮み、芭蕉布――など独特の涼感を持つ織物が考えられたのもそのため。中でも優雅な涼味という点では“紗(しゃ)”や“絽(りょ)”という透明感のある織物が出色。初夏から夏にかけての装いとして憧れに似た人気を誇っています。
年配の方ならご存知だと思いますが、戦前にはこの紗や絽の装いはよく見られました。
強い陽射しの中を、透明感のある着物をキリッと着こなして行く女性の姿は、子供ごころにも鮮烈なイメージを植えつけたものでした。
また、絽が盛んに着られた江戸時代の浮世絵には、夏姿としてこの軽やかで透けた薄物に身を包んだ女性が多く登場します。絵師たちの目にも、この装いが何とも鮮やかで、そのくせ気品に溢れたものと写ったようです。

作務衣父の日キャンペーン 3つの「お父さんありがとう」特典付き!

頑固一徹、変わらぬ親父へ。
たまに訪ねても、顔を向けずに背中越し、ぶっきらぼうな応対は相変わらず。照れているのよ、という母の笑い声に、ふんと鼻を鳴らす癖も変わらない。
とはいえ親父、背中がだいぶ小さくなった。
幼い頃、駄々をこねて、この背に何度おぶってもらったことだろう。
今度は自分が、親父の気持ちを背負ってやる番。
のんびりしなよ、と云っても聴く耳持たぬ頑固さに、つい嬉しくて目が滲む。
『父の日』がパッとしないのは、照れ屋が多いせい?
1910年にアメリカのジャン・ブルース・トッド婦人の提唱により始まった『父の日』。お母さんの心に感謝の心を示すための『母の日』が定着し、家族のために頑張っている父親にも、もっと、感謝の意識を捧げましょうというスローガンのもとにスタートしたのですが、『母の日』に比べ、いまひとつ盛り上がりに欠けているというのが現状のようです。
今では世界中に広まった記念日ですが、何となくパッとしないのは、対象が元来照れ屋な男性のためということもあるのかもしれません。
特に息子さんの場合は男同士のためか、何だか妙に照れてしまって、その日が来てもついお父さんに何もせずに過ごしてしまうもの。
本当は心の中では、いつも感謝していて、機会があれば贈物のひとつもしてあげたいと考えているはずなのに…。
『父の日』というのはそんな無器用な男性達にとっても、感謝の気持を示す、いいきっかけを創ってくれる日のはず。
長年あたためてきた感謝の心を表すには何かといい契機ではないでしょうか。
今年の父の日は6月19日。では何を贈れば喜ばれるのか?
『父の日』は6月の第3日曜日、今年は6月19日にあたります。今度こそお父さんに、ありがとうの気持をかたちにしてみてはいかがですか。
では何をプレゼントすればいいのでしょうか?
一般的に考えると、普段良く使い、身に付けるもの、ネクタイやベルトなどがすぐに思い浮かびますし、人気の品でもあるのですが、長年家族のために一生懸命に働いてきたお父さんに、今さら体を締め付けるモノをあげるのは如何なものでしょう。
”リラックスしたい、のびのびしたい…”。
お父さん達はいつもそう考えているはずです。だからこそ、贈物は普段使えて、しかも体を締め付けず、心を解き放せるものが一番だと思います。
”作務衣”を贈るのがブーム。心を解き放せるのがその理由…。
そんな想いも一因なのか、いま、父の日の贈物として作務衣がブームを呼んでいるそうです。
人気の理由は、大人の男性のファッションとして、渋さと味わう深さを持ち、機能的で実用的、しかもゆったりと着れて、お出かけにも気軽でお洒落だからとか…。
実は、静かなブームは何年も前から起こっており、今もお洒落の通の間では口コミなどで徐々に広がりを見せているとか。
だからこそ、今年の贈物は作務衣で決めてみる。
実のお父さんはもちろん、父とも慕う人、お世話になった方にプレゼントしてはいかがでしょうか。ご夫婦お揃いの作務衣を贈ってみるのも素敵なアイディアのひとつ。
「なかなか、いいセンスしてるじゃないか」と、きっと気に入ってくれるに違いありません。

藍・LOVE・STORY(6)

五十年ぶりに復活『藍の初染めの儀式』
その2・復活した「藍の初染めの儀式」

私の先祖が藍染屋であったこともあって、不肖、私が五十年振りに、この「藍の初染めの儀式」を復活させていただきました。
文献によると、昔の「藍の初染めの儀式」の日には、日頃、藍染の布を織ってくれる農家のお嫁さんたちの労をねぎらい、甘酒をふるまったとあります。そして、その日は、みんなお休みです。
今は、正月の七日に「藍の初染めの儀式」をみんなでやっております。復活してから、もう八年になりますかね…。
でも、今年の一月七日は、大変なことになってしまいました。そう、昭和天皇の崩御の日とぶつかってしまったのです。
で、関係者のみなさんから問い合わせの電話がジャンジャン入りまして「どうなんだ。今年はどうするんだ。やれるのか?」という訳です。
で、私も困りまして、神主に相談したところ「拍手を打たなければ大丈夫」というのです。それで、例年通り「藍の初染めの儀式」を行いました。
玉ぐしを奉納して、祝詞を上げ、儀式はとどこおりなく終了しました。
熊井さん・談終了
さすが、藍を愛して止まない熊井社長。藍のルーツはもちろん、藍に関する造詣の深さには舌を巻いた。
そして、ご先祖の縁とは言え、五十年振りに「藍の初染めの儀式」を復活させた熊井社長に、藍にかける男の心意気を見た。

藍・LOVE・STORY(5)

五十年ぶりに復活『藍の初染めの儀式』
その1・愛染明王と藍染の儀式

この先に「愛染明王(あいぜんみょうおう)」という仏閣がありまして、私たちはいつも「愛染さま、愛染さま」と呼んでいます。
この愛染明王を、江戸時代から明治の末まで、毎年1月26日に参拝する儀式がありました。
この日は、江戸の染めもの屋を始めとして、藍問屋、藍染屋、藍の栽培農家、藍染を織る人たちがみ~んな集まって、「愛染明王」に感謝と祈願を捧げるのです。
この愛染明王におまいりすることを「愛染講」といいまして、参拝が終わると人々は帰りに熊谷で山おろし(今でいう精進落とし)をした訳です。
これが熊谷遊郭の始まりだといわれています。
この愛染講とは別に、毎年正月2日に「藍の初染めの儀式」がありました。
この儀式は、正月に初商いされる藍玉を藍ガメに入れて発行させ、この中に紙を入れて染めたものを神(これも結局愛染明王なのですが)に奉納するものです。
そして去年一年間の感謝をささげると共に、新たな年の藍染めがうまく染まりますようにと祈願する訳です。
しかし、この藍の初染めの儀式も、藍染の衰退と共に、ずっと途絶えていました。

藍・LOVE・STORY(4)

藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その4・余談「渋沢栄一・高崎城焼打ち計画」

余談ですが、熊谷の先に、「深谷」という市がありまして、昔は藍の産地として広く知られていました。で、この深谷に、渋沢家という藍問屋があったのですが、この渋沢家は、かの渋沢栄一翁の実家でした。
渋沢栄一は、血気盛んな20歳位の時、近隣の若者を扇動して、高崎城の焼打ちを計画しました。焼打ちを成功させるためには、武器がいる。
そこで渋沢栄一は、武器を調達するため、実家の藍問屋からかなりのお金をくすねました。その金額が、今のお金にして10億は下らないだろうと言われています。
それで、渋沢栄一が実家から持ち出した大金を、渋沢家の会計係は2年間気付かなかったというのです。会計係がボーッとしていたのか、お金がありすぎて気付かなかったのかは分かりませんが…。
こうして横浜まで武器を調達しに出かけた渋沢栄一でしたが、運悪くこれが幕府に発覚してしまいました。
窮した渋沢栄一は、京都の一橋家へ逃げ込んだ。一橋家といえば、十五代将軍・徳川慶喜でも分かるように、れっきとした徳川将軍家。幕府そのものな訳です。
つまり、渋沢栄一は、幕府に追われて幕府のふところに飛び込んだ。このあたりが、渋沢栄一の発想のすごさですね。

藍・LOVE・STORY(3)

藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その3・藍問屋と藍染屋

一方、農家が栽培した藍を買い集めるのが「藍問屋」といわれる製造問屋です。この藍問屋は、藍を買い集めるだけでなく、藍を発行させて藍玉をつくります。この藍玉をつくるには、高度なノウ・ハウが要ったのです。
つまり、藍問屋は、買い集めた藍に、発行技術というものすごい付加価値をつけて、藍染屋に藍玉を売っていたのです。
藍問屋というのは、貧乏な藍染屋にお金も貸していました。つまり、金融業も兼ねていたのです。
なぜ、藍染屋は貧乏か?それは、藍染というのは、非常に手間・ヒマかかるもので、染めるだけでも最低10回は染める。手間・ヒマかかる割りに、実入りは少ない。だから、貧乏な訳です。
ま、藍問屋を、今のお笑い界の雄・吉本興業に例えると、藍染屋はさしずめ芸を売るお笑いタレントといったところですか…。
で、ご多分にもれず私の祖先は、貧乏な藍染屋だった訳です。
それでも、やはりニーズがあったんでしょうね。明治の初めには、武州の藍染屋が七百軒もあったと言われています。今は、わずか四軒ですけど…。

藍・LOVE・STORY(2)

藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その2・江戸の藍染市

ここ行田・羽生を中心とする埼玉県北部地域は、江戸時代に綿の一大産地でした。そして、行田から4km程行った利根川流域では、藍が盛んに栽培されていました。
この綿と藍が結びついて始まったのが武州藍染の起こりだと言われています。
ちなみに、田山花袋の「田舎教師」という小説の一節に「四里の道は遠かった。途中に青縞の市の立つ羽生の町があった。」というくだりがあるのですが、武州藍の市のことなんです。
江戸時代から明治にかけて、羽生は8の日、行田は6の日、騎西(きさい)は7の日などと決められ、藍染織物の市が立っていました。
で、この藍染の織物ですが、農家が糸を買って藍染屋(紺屋:こうや)に染めてもらい、これを農閑期や夜なべ仕事で織った訳です。そして織り上がると、青縞の市に出す。
これを買う商人がいまして(これを「縞買い」という)、買った青縞で足袋をつくった。これが、いわゆる行田足袋の発祥ですよ。