藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その2・江戸の藍染市
ここ行田・羽生を中心とする埼玉県北部地域は、江戸時代に綿の一大産地でした。そして、行田から4km程行った利根川流域では、藍が盛んに栽培されていました。
この綿と藍が結びついて始まったのが武州藍染の起こりだと言われています。
ちなみに、田山花袋の「田舎教師」という小説の一節に「四里の道は遠かった。途中に青縞の市の立つ羽生の町があった。」というくだりがあるのですが、武州藍の市のことなんです。
江戸時代から明治にかけて、羽生は8の日、行田は6の日、騎西(きさい)は7の日などと決められ、藍染織物の市が立っていました。
で、この藍染の織物ですが、農家が糸を買って藍染屋(紺屋:こうや)に染めてもらい、これを農閑期や夜なべ仕事で織った訳です。そして織り上がると、青縞の市に出す。
これを買う商人がいまして(これを「縞買い」という)、買った青縞で足袋をつくった。これが、いわゆる行田足袋の発祥ですよ。