五十年ぶりに復活『藍の初染めの儀式』
その2・復活した「藍の初染めの儀式」
私の先祖が藍染屋であったこともあって、不肖、私が五十年振りに、この「藍の初染めの儀式」を復活させていただきました。
文献によると、昔の「藍の初染めの儀式」の日には、日頃、藍染の布を織ってくれる農家のお嫁さんたちの労をねぎらい、甘酒をふるまったとあります。そして、その日は、みんなお休みです。
今は、正月の七日に「藍の初染めの儀式」をみんなでやっております。復活してから、もう八年になりますかね…。
でも、今年の一月七日は、大変なことになってしまいました。そう、昭和天皇の崩御の日とぶつかってしまったのです。
で、関係者のみなさんから問い合わせの電話がジャンジャン入りまして「どうなんだ。今年はどうするんだ。やれるのか?」という訳です。
で、私も困りまして、神主に相談したところ「拍手を打たなければ大丈夫」というのです。それで、例年通り「藍の初染めの儀式」を行いました。
玉ぐしを奉納して、祝詞を上げ、儀式はとどこおりなく終了しました。
熊井さん・談終了
さすが、藍を愛して止まない熊井社長。藍のルーツはもちろん、藍に関する造詣の深さには舌を巻いた。
そして、ご先祖の縁とは言え、五十年振りに「藍の初染めの儀式」を復活させた熊井社長に、藍にかける男の心意気を見た。
藍・LOVE・STORY(5)
五十年ぶりに復活『藍の初染めの儀式』
その1・愛染明王と藍染の儀式
この先に「愛染明王(あいぜんみょうおう)」という仏閣がありまして、私たちはいつも「愛染さま、愛染さま」と呼んでいます。
この愛染明王を、江戸時代から明治の末まで、毎年1月26日に参拝する儀式がありました。
この日は、江戸の染めもの屋を始めとして、藍問屋、藍染屋、藍の栽培農家、藍染を織る人たちがみ~んな集まって、「愛染明王」に感謝と祈願を捧げるのです。
この愛染明王におまいりすることを「愛染講」といいまして、参拝が終わると人々は帰りに熊谷で山おろし(今でいう精進落とし)をした訳です。
これが熊谷遊郭の始まりだといわれています。
この愛染講とは別に、毎年正月2日に「藍の初染めの儀式」がありました。
この儀式は、正月に初商いされる藍玉を藍ガメに入れて発行させ、この中に紙を入れて染めたものを神(これも結局愛染明王なのですが)に奉納するものです。
そして去年一年間の感謝をささげると共に、新たな年の藍染めがうまく染まりますようにと祈願する訳です。
しかし、この藍の初染めの儀式も、藍染の衰退と共に、ずっと途絶えていました。
藍・LOVE・STORY(4)
藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その4・余談「渋沢栄一・高崎城焼打ち計画」
余談ですが、熊谷の先に、「深谷」という市がありまして、昔は藍の産地として広く知られていました。で、この深谷に、渋沢家という藍問屋があったのですが、この渋沢家は、かの渋沢栄一翁の実家でした。
渋沢栄一は、血気盛んな20歳位の時、近隣の若者を扇動して、高崎城の焼打ちを計画しました。焼打ちを成功させるためには、武器がいる。
そこで渋沢栄一は、武器を調達するため、実家の藍問屋からかなりのお金をくすねました。その金額が、今のお金にして10億は下らないだろうと言われています。
それで、渋沢栄一が実家から持ち出した大金を、渋沢家の会計係は2年間気付かなかったというのです。会計係がボーッとしていたのか、お金がありすぎて気付かなかったのかは分かりませんが…。
こうして横浜まで武器を調達しに出かけた渋沢栄一でしたが、運悪くこれが幕府に発覚してしまいました。
窮した渋沢栄一は、京都の一橋家へ逃げ込んだ。一橋家といえば、十五代将軍・徳川慶喜でも分かるように、れっきとした徳川将軍家。幕府そのものな訳です。
つまり、渋沢栄一は、幕府に追われて幕府のふところに飛び込んだ。このあたりが、渋沢栄一の発想のすごさですね。
藍・LOVE・STORY(3)
藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その3・藍問屋と藍染屋
一方、農家が栽培した藍を買い集めるのが「藍問屋」といわれる製造問屋です。この藍問屋は、藍を買い集めるだけでなく、藍を発行させて藍玉をつくります。この藍玉をつくるには、高度なノウ・ハウが要ったのです。
つまり、藍問屋は、買い集めた藍に、発行技術というものすごい付加価値をつけて、藍染屋に藍玉を売っていたのです。
藍問屋というのは、貧乏な藍染屋にお金も貸していました。つまり、金融業も兼ねていたのです。
なぜ、藍染屋は貧乏か?それは、藍染というのは、非常に手間・ヒマかかるもので、染めるだけでも最低10回は染める。手間・ヒマかかる割りに、実入りは少ない。だから、貧乏な訳です。
ま、藍問屋を、今のお笑い界の雄・吉本興業に例えると、藍染屋はさしずめ芸を売るお笑いタレントといったところですか…。
で、ご多分にもれず私の祖先は、貧乏な藍染屋だった訳です。
それでも、やはりニーズがあったんでしょうね。明治の初めには、武州の藍染屋が七百軒もあったと言われています。今は、わずか四軒ですけど…。
藍・LOVE・STORY(2)
藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その2・江戸の藍染市
ここ行田・羽生を中心とする埼玉県北部地域は、江戸時代に綿の一大産地でした。そして、行田から4km程行った利根川流域では、藍が盛んに栽培されていました。
この綿と藍が結びついて始まったのが武州藍染の起こりだと言われています。
ちなみに、田山花袋の「田舎教師」という小説の一節に「四里の道は遠かった。途中に青縞の市の立つ羽生の町があった。」というくだりがあるのですが、武州藍の市のことなんです。
江戸時代から明治にかけて、羽生は8の日、行田は6の日、騎西(きさい)は7の日などと決められ、藍染織物の市が立っていました。
で、この藍染の織物ですが、農家が糸を買って藍染屋(紺屋:こうや)に染めてもらい、これを農閑期や夜なべ仕事で織った訳です。そして織り上がると、青縞の市に出す。
これを買う商人がいまして(これを「縞買い」という)、買った青縞で足袋をつくった。これが、いわゆる行田足袋の発祥ですよ。
藍・LOVE・STORY(1)
藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その1・藍染のはじまり
稲荷山古墳にほど近い埼玉県行田市持田に、武州本藍染めの技術と伝統を守り続ける(株)熊井の本社がある。ここ行田市は、隣の羽生市と並んで、江戸時代から明治末期まで隆盛を誇った武州本藍染めの本拠地ともいうべき土地柄だ。
(株)熊井の熊井信人社長は、婦人服・子供の縫製業を営んできたが、ひょんなことから藍染を手がけることになる。今では、藍なしでは夜も日も明けない毎日である。
これは、藍にこだわり、藍を愛す幸せな一人の男の物語だ。
熊井さん・談
実は、藍染というのは、いつ・誰が・どこで発見したのかよく分かっていないのです。今から、三千年前という説があるにはあるのですが…。
誰かがたまたま、植物藍を土の中に入れていた。そこに雨が降って、雨水がたまった。そしたら、これが発行した。で、その液の中に布を入れてみたら、キレイな藍色に染まった。どうも、これが藍染の起こりらしいんですね。
で、場所的には、インドネシアとかインドあたりが、植物藍のルーツらしい。これがタイやカンボジアに伝わり、さらに中国南部の広東や福建に入った。そして、台湾を経由して奄美大島に渡来し、九州から日本に上陸して、江戸時代の始めに普及したといわれています。
一方、江戸時代に、綿の栽培が始まっているんですね。綿は、当初は高級品だった。それが普及するにつれて、庶民のものになった訳です。
で、この植物藍と綿がドッキングして、日本の藍染になった、綿が一番、藍になじみがいいというか、染まりいいんですね。
行灯袴・上下組 野袴・生成と縹
「行灯」と呼ばれる様式を踏まえた袴上下。こんな時代だからこそ装ってみたい一着。
“袴”へのご関心が高いようです。
野袴や、作務衣と袴のアンサンブルがあるのなら、きちんとした袴の様式も揃えて欲しいとの声が湧出。このご期待に応えて「袴上下組」の登場です。
本袴と申しますか、いわゆる様式を踏まえた袴の上下。俗に「行灯袴」と呼ばれる形で仕立てました。
写真ではちょっと分かりにくいかも知れませんが、紗とも絽ともつかぬ独特の透明感がいかにも涼しげ。和装業界でも多くは見られない、春夏用の袴上下組です。
にじみ出る風格や日本人らしさが何とも新鮮。こんな時代だからこそ、装ってみたい一着です。
こちらは、藍染の彩り開発(藍墨)過程で蘇った「野袴」の様式。
一点は藍染好きにはたまらない「縹(はなだ)」、そしてもう一つは思い切って、綿素材の「生成(きなり)」。
何気なくご紹介していますが、いずれも結構インパクトの強い作品として仕上がっています。
本格的な「袴」と「作務衣」の中間に位置するようなこの様式は、なかなかに個性的。見る人に強い印象を与えることでしょう。
正藍染高機能 作務袴(しょうあいぞめこうきのう さむばかま)
作務を行うお坊様の声にお応えして開発した「作務袴」、お寺様に受け入れられるかどうか心配していましたが、杞憂でした。作務衣と改良衣の中間に位置するような装いが必要な方は、意外と多かった――ということのようです。
ご覧のように、簡素な仕立ての袴はなんとも機能的。目には、彩りも鮮やかな正藍染「水縹」と落ち着いた色感の「縹」の二色。さらに、いずれにも水を弾く撥水加工を施しました。あると重宝する一着です。
馬乗り袴 伽羅茶と銀鼠 行灯袴 伽羅茶と銀鼠
黒によし…茶にもよし…そして紺の改良衣にもさらによし…
改良衣とは、お坊様がお召しになる、作務衣のルーツとも言える衣です。
当会では、お坊様のご意見を採り入れ、改良衣の開発も行っております。そのお声により、この二点の袴も開発いたしました。
襠(まち)と相引を高くして、ひだを深く仕立てた「馬乗り袴」と、襠がなく両足に分かれていない「行灯袴」の二点です。
いずれも、タテ糸に絹、ヨコ糸にウールを使ったシルクウール仕立て。絹の輝きとウールの暖かさが得られ、はきやすさも格別です。
色は、いずれも二色揃え。
「銀鼠」は、墨五彩の“淡”にあたる鼠色で、またの名を“錫色(すずいろ)”とも呼ばれる気高い彩りです。
「伽羅茶」は、インド地方に産する沈香木(じんこうぼく)に因んだ暗い黄褐色の茶で、江戸中期に人気を博した彩りです。
二彩とも改良衣に合わせるにふさわしい気品と格調を持った色合いですが、特に「銀鼠」は、黒、茶、紺系の改良衣のいずれにも見事に調和します。
もちろん、「伽羅茶」の方も、袴の色としては定評のあるところ。お好みに合わせてお選び下さい。
武州正藍染 石塚野袴
「このところ少し軟弱な方向性を感じていただけに、この憲法黒の開発には快哉を叫んだ。まさに剛毅にして端正、やはり作務衣はこうあって欲しい…と考えるのは私だけであろうか」
こんなお便りを目にすると、本当に作務衣づくりをやっていて良かったと思うものです。合わせて世に問うた「野袴」もまた、日本人男性の心の奥にある琴線に触れることができたようで、大変嬉しく思っております。
その「憲法黒」の開発に関わった、織り師石塚久雄さんの創作野袴です。
大ヒットとなった作務衣「卯月」を手がけ、武州はおろか、全国レベルでも創織作家として名を馳せる石塚さんならではの会心作。まさに石塚ワールドの一着ゆえに、作品名もそのまま「石塚野袴」とさせていただきました。